※画像をクリックすると拡大画像が表示されます
▽鎌倉時代
▽室町時代
▽江戸時代
▽明治時代
▽現代
□
▽
源頼朝が1192年鎌倉に幕府を開き、その後、北條氏が実権を握った鎌倉時代。 宋より、絵画、磁器、漆器など多くの品物が流入し、同時に臨済禅宗が入って来て人々の信仰をあつめました。 鎌倉五山といわれる建長寺、円覚寺、寿福寺など多くの禅宗寺院が建立され、同時にそこで使われる前机、須弥壇、香合などの什器類も作られました。 建長寺の須弥壇(重文)、円覚寺の牡丹文前机などは特に有名です。これらを作ったのは、造仏のために奈良からやって来た慶派の仏師達といわれています。 技術を持つ人達が鎌倉にいて、宋文化に影響され、禅宗寺院で使われた多くのものを作ったのではと思われます。
牡丹唐草文前机(円覚寺蔵)
一方、宋から伝えられた中には、堆朱(ついしゅ)と呼ばれる盆、大香合などの漆芸品がありました。 これは漆を何十回も塗り重ねた面に、精巧な文様を彫刻した大変に貴重な品です。 これは高価で数も限られていたため、木に同じような彫刻をして漆を塗った、いわゆる木彫彩漆のものが作られるようになりました。 これが時を経て、日本の湿潤な風土の中で独自の工芸品へと移り変わり、作風も日本的なものへと変化して行きます。
鎌倉彫屈輪文香合(鎌倉彫資料館蔵)
堆朱屈輪文香合(神奈川歴史博物館蔵)
△
□
▽
室町時代にかけて作られた、京都の南禅寺、知恩寺、金蓮寺ほか多くの寺院に伝えられている大香合、また鎌倉国宝館の獅子牡丹文猿面硯台などの優品は、このような背景の中から生まれました。 また東北地方の中尊寺、示現寺などにも意匠化された独特の椿文様の笈が残されています。 現在、これらは一般的に鎌倉彫と呼ばれ、人々によく知られています。
屈輪文三足卓
(鎌倉彫資料館蔵)
屈輪文大香合
(永源寺蔵)
椿文笈(鎌倉彫資料館蔵)
この時代の公家の日記、「実隆公記」に鎌倉物という言葉が初めて現れます。 この頃、堆朱や青磁などと共に、鎌倉物といわれる盆、香合類が、公家の間での進物や書院の飾り物として多く使われていたことも記されています。 広く陶磁器をさして、瀬戸物と呼びますが、これは瀬戸地方が大きな産地であったからです。 同じように「鎌倉物」という言葉からは、鎌倉の地域で多くのものが作られていただろう様子をうかがうことができます。
△
□
▽
江戸時代になると茶道が普及するにしたがい、茶入、香合、香盆などが多く求められるようになりました。 この頃は精緻な蒔絵が非常に発達した時代でしたが、雅味のある鎌倉彫も人々に好まれたようで、元禄に出版された「万宝全書」という茶道具の手引書の中には「鎌倉彫」の名が出てきます。 図柄として、牡丹、屈輪、また堆朱の盆などに好んで使われた楼閣人物図を思わせるものが多く彫られ、「唐物」が珍重されていた時代というものを感じ取ることができます。 しかし、江戸も末期になると侘び、寂びに偏重したものが多くなって力強い彫刻的な魅力は失われてゆきました。
牡丹文大香合(鎌倉彫資料館蔵)
牡丹唐草文茶入(鎌倉彫資料館蔵)
△
□
▽
明治になると、神仏分離令が公布され、続いて起きた廃仏毀釈の運動により、仏師達は仕事を失い、多くを数えた仏師は三橋、後藤家を残すのみとなりました。 この2軒の仏師は、この転機に本来の仏像制作から生活の中で使われる工芸品を作ることに力をそそぎました。 明治22年、横須賀線が開通するとともに鎌倉は別荘地として栄えるようになり、ここを訪れる多くの人達への、日用品やお土産の茶托、銘々皿、盆、菓子皿などを作るようになりました。 これが現在の鎌倉彫へと展開してゆくことになります。
蓮華文碁笥(後藤齋宮作)
牡丹文食籠(三橋了和作)
菊牡丹菓子器(後藤齋宮作)
松竹梅干菓子器(三橋鎌岳作)
△
□
戦後、日本の復興とともに人々の生活にゆとりが生まれるようになりました。 大量生産される工業製品に対して、手仕事のもつ暖かさが求められ、鎌倉彫はおおきく生産を増やしてゆきます。 商品の製作が盛んになる一方、趣味の教室活動も始まって、現在各地でひらかれているカルチャー教室のさきがけとなりました。
鎌倉彫協同組合により、1968年に鎌倉彫会館、1977年には鎌倉彫資料館が設立され、多くの人々の勉強の場として広くその門戸が開かれるようになりました。 愛好者は全国的に広がって、かつてない興隆をみせています。1979年、当時の通産省から伝統的工芸品としての産地指定を受け、後継者の育成、需要の開拓などの振興策が図られました。 現在、鎌倉を中心に約200名の人達が鎌倉彫の仕事にたずさわっています。